図書館の文献等より抜粋

2021年07月06日 08:00

《旧邑久郡牛窓町の園芸・特用作物の歴史、牛窓地域へのカボチャ導入について》

 南瓜の花盛り  乱れむとす南瓜畑 邑久主要産物の一  ※大正5年6月16日付 山陽新報記事

「販売の目的にて栽培せるは明治10年なり、されど未だ一反以上の栽培者無く、岡山西大寺方面の需要充たすに過ざりし。県外輸出は明治二十年頃よりにして漸次増加し、一望見渡す南瓜の黄花緑の葉陰に結果せるものも、ちらちら南瓜期に入らんとせり。」

牛窓町史 資料編Ⅲ


戦前はジャガイモ、カボチャ、ハッカ及び葉タバコが地域農業の四本柱であったが、昭和30年代後半にハッカが、次いで40年代後半に葉タバコが相次いで衰微していき、その代わりの位置をハクサイ、キャベツが占めるようになった。昭和50年代以降はジャガイモ、カボチャ、ハクサイ、キャベツが四本柱である。(※カボチャの歴史は古く、明治10年頃より栽培されていた。明治40年頃になるとジャガイモ・ハクサイ・ハッカが、昭和の初めに葉タバコの栽培が始まる。キャベツは大正10年頃~昭和10年代まで生産されたが、当時の食生活になじまず、戦前は普及しなかった模様)

牛窓は海運の町であり、このことが農業に大変プラスとなった。生産されたジャガイモ、カボチャ、キャベツなどを有利な県外市場へ船出し、岡山県内のものより安価な肥料を大量に購入した。

また、青果物出荷は汽車より船のほうが安くつくが、日数がかかるため日持ちが良くなければならない。その点特産のジャガイモ・カボチャは最適であり、牛窓は気候・土壌等立地条件、販売ルート、肥料等の生産条件など数々の好条件に恵まれた生産地であった。

ナンキンは炊くと柔らかく、汁も甘いので、小豆と団子を入れた雑煮もよく作られた。しかし、本来は甘い味であったが戦中・戦後は塩味であった。そして田畑を持たない商家や漁家でも、ナンキンを木箱やバケツに植え、木に登らせて栽培した。

「岡山の園芸」には、広島県沼隈郡田尻地方からカボチャの種子が移入され、当初は「田尻南瓜」といわれ、これが各方面から導入された多品種と交雑して「備前黒皮種」が作出された、とある。このカボチャは牛窓および近辺で多産され、戦前までは質量共に阪神市場を圧していた<中略>紀州のミカン船が(積み荷のない季節なので)相生から十数隻きて、粟利郷、鹿忍(唐戸港)、牛窓、前島などの港から積み出された。販路は播州、大阪、淡路である。

カボチャは大正の初めごろ、商品生産化されたことが推定される。なお大正6年には、ハッカはジャガイモに次ぐ特用産物で、生産高はカボチャを抜いていた。そして、ハッカの価格が上がれば(大正12年及び13年、昭和3年)、その面積がふえて、翌年にはカボチャの作付が減った。

カボチャの栽培品種は、戦前の「備前黒皮」から、戦後は「新土佐」に変わり、それが「打木赤栗」に、そして「芳香青皮種」にと主流は移り変わり、最近はエビスカボチャが中心である。現在はエビス主体に小菊、芳香も作られている。

※補足 ●芳香青皮種(正式名:芳香青皮栗南瓜)...1934年に宮城の渡辺採種場が育成した日本で最初の西洋カボチャ。 立川の農家が東京市場に出荷して人気を呼び、東京南瓜と呼ばれた。 ●打木赤栗(正式名:打木赤皮甘栗南瓜)...昭和8年、金沢市打木の松本佐一郎が福島県の洋種系赤皮栗南瓜を導入。昭和18年頃固定。戦後全国に出荷され関西を中心に人気を博した。 ●新土佐(別名:鉄兜)...戦後の食糧難を解決するため日本かぼちゃと西洋かぼちゃを交配して作られた品種。根が強く蔓のもちがよいため、長期間にわたり栽培が安定し貯蔵性があり、また耐暑性もあったため夏かぼちゃとして重視されていた。

牛窓町史 民族編


南瓜は牛窓地区において、明治以前より自家用として栽培されていた。販売目的での栽培は明治10年頃とされているが、一反歩以上の栽培農家はなく、岡山や西大寺方面の需要を満たす程度に留まっていた。その後県外への出荷も始まり、産地化の道を歩むことになる。

前述した「邑久郡の南瓜」と題された明治23年7月の新聞記事が記しているように、この頃既にこの地域では南瓜作が展開していた。それは、秋作馬鈴薯の前作として位置づけられ、馬鈴薯栽培とほぼ同時期から地域の中心的産物となった。大正元年における鹿忍地区の統計資料によれば、耕作面積110町歩、収穫高44万貫である。(『鹿忍町史 』48頁)

牛窓町史 通史編


*邑久郡産出の食用及び特用農産物(米麦を除く)総価格

〔明治44年度〕 ジャガイモ(71,260円)、ハッカ(記録なし)、カボチャ(記録なし)大正6 邑久郡誌 第2編

〔大正6年度〕 ジャガイモ(150,243円)、ハッカ(118,951円)、カボチャ(70,714円)大正7.2.24 山陽新報


錦海湾沿岸は温暖で、土壌もナンキンの適地として盛んに耕作されていた。特に当時のチリメン南瓜は、果質の粘りと甘味に優れて、近郷に大変は好評を博していた。収穫期ともなると、お百姓さん達は朝早くから、荷車を挽き自転車に乗って、郡内は勿論、和気郡赤磐郡上道郡から岡山市へ、中には津山近郊まで行商の足を伸ばしていた。

長浜の昔を語る会


共同出荷の事業が、農作経営上に効率的なことが認められて、昭和9年牛窓、鹿忍両町の連合で、備前種子用馬鈴薯協会を設立するとともに、師楽農産物出荷組合は発展的解消をした。昭和12年に裳掛・玉津・長浜・牛窓・鹿忍・大宮・本庄・朝日の八カ町村連合による備前馬鈴薯南瓜協会と改称したが、昭和15年に至り、日華事変の戦線拡大化によって、新体制は布かれ、統制令の公布によって、備前青果物統制協会と改称された。昭和17年法の定むる所によって、販売、購買および金融を兼ねた統制組合に変更し、右八カ町村に太伯、幸島両村を加えた保証責任備前青果物販売購買組合と改称したが、昭和19年4月、その筋の命によってこの組合を、岡山県農業会に合併されることになった。昭和19年5月、別途に備前馬鈴薯採種組合を組織して再発足し、八カ町村の組合として、昭和21年12月、備前青果物協会を設立したが、昭和23年に農業組合法の改正によってこれを解散し、新たに備前青果物販売農業協同組合連合会を創立するとともに、別に岡山県園芸農業組合を設立して今日に及んでいる。

牛窓風土物語 続



《備前黒皮に関する資料》

広島県沼隈郡田尻地方からカボチャの種子が移入され、当初は「田尻南瓜」といわれ、これが各方面から導入された多品種と交雑して「備前黒皮種」が作出された。

岡山の園芸


備前黒皮、昔はこれ一本であった。一本にも統一にも、この一種の他はなかった。

夏の朝、小高い丘の上に立てば、海に突き出た半島一円も、前島も、南瓜の花で真っ黄色にぬりつぶされた、壮観とも云いたいながめであった。打ちつづく段々畑は皆南瓜畑であった。日本中を股にかけて、花を求めて南から北へ移動する養蜂家も、蜜蜂の函を運んできていた。

何よりも助かったのは、戦時中あらゆる食料品の統制下にも、除外されて重要な命つなぎの一つであった。

紀州のミカン船が(積み荷のない季節なので)相生から十数隻きて、粟利郷、鹿忍(唐戸港)、牛窓、前島などの港から積み出された。販路を播州沿岸の港々から、大阪淡路方面まで拡げて、備前南瓜の名を広めてくれた。

山の小笹や萱(かや)と、或いは耕作物の収穫の終わった、例えば南瓜蔓などと、この厩肥(きゅうひ)とを交互に堆積した堆肥は地力の維持や増進には欠ぐことの出来ない重要な役割を担っていた。

むらの記録 師楽


広島県田尻地方から移入された田尻南瓜が各方面から導入された他品種と交雑して備前黒皮が作出されました。当時備前黒皮にはいくつかの系統があり、系統間の違いは縮緬の出方だったようです。1987年に農業試験場が牛窓町師楽から収集したのはそのうちの1つです。

2015.8.6 岡山県農林水産総合センター農業研究所 野菜・花研究室 綱島健司 氏


備前(ビゼン)黒皮(クロカハ)南瓜(ナンキン)  ●早生種 一袋五銭 ●中生種 一袋五銭

南瓜中最も廣く栽培せられて居るのは何んと云っても本種です。黒皮で美しく縮み肉厚くよくしまり甘味に富む豊産種。

タキイ種苗目録/昭和11年

備前(ビゼン)南瓜(ナンキン)〔早生縮緬黒皮〕 ●早生種 一袋六銭

南瓜中最も廣く栽培せられて居るのは何んと云っても本種です。黒皮で美しく縮み肉厚くしまり甘味に富む豊産種です。

タキイ種苗目録/昭和16年・17年・18年

備前(ビゼン)南瓜(ナンキン)〔早生縮緬黒皮〕 ●早生種 一袋5円

黒皮で美しく縮み肉厚くしまり甘味に富む豊産種です。

タキイ種苗目録/昭和26年



《戦時中~戦後 食糧難時代の代用食》

戦時中は、各県の青果物の出荷を割り当てられたのを、岡山県分は、県東南部の数カ村で結成していた、牛窓町を中心とした、東備青果物出荷組合が全量を引き受けて、その任を完了したのは、この南瓜と後で言及する、馬鈴薯で賄ったほどであった。

むらの記録 師楽


戦時中の野菜不足時代、岡山県内の配給野菜は、牛窓を中心とする東備青果物出荷組合が一手に引き受けて供給したといわれる。男手の少ないこの時期に大変な苦労であったと思われるが、この役割を果たしたことが、牛窓野菜の名声を内外に高めてきたことは事実である。

山や野のもの、海のものに恵まれた牛窓町ではあったが、戦中・戦後は例にもれず食糧難で苦しめられた。とくに昭和19~20年ごろが一番厳しかった。食糧の多くは自給と配給によったが、3回の食事がやっとのことであった。米、麦、うどん、パン、砂糖に至るまで配給であったが、当然のことながらそれで食事が満たされるわけではない。農家といえども一人に割り当てられた米(一人一日二合三勺)以外は全て供出を命じられた。しかし町に比べると農家には食物に多少余裕があった。街の人たちは着物を持って米や麦、ナンキンや芋類を買い出しに農家に出向いた。<中略>米や麦の不足を補ってきたのがナンキンやサツマ芋、キンカ芋であった。幸いにして瀬戸内海に面した牛窓町は、気候的にも地質的にもナンキンや芋類の栽培に適していた。しかし出征に伴う人手不足で、全ての田畑が有効に利用されたとは言い難い時期もあった。「ナンキンで命をつないだ」という人は多く、ナンキンばかり食べるので手や顔が黄色になり、「なんきん黄疸(おうだん)」にかかったといわれるほどであった。

牛窓町史 民族編


「南瓜雑煮」は長浜特産の南瓜を使った料理であった。戦前戦後を通して、米麦の代用食として毎晩のように食卓に載せられていた。その当時の南瓜は「ちぢみ黒皮」で、戦後は鉄兜から芳香南瓜と替わってきた。<中略>長浜育ちは南瓜で大きくなり、そして長生きをしてきたものである。だから当時は肌も些か黄色身を帯びていたとか。<中略>肌が黄色味を帯びていたことは事実で有ったと思う。それは、食料不足の世代を、生き延びる為に主食代用として南瓜を盛んに食した結果であります。合わせて、この有色作物が長寿村の因を成していたことも証明されるようになった。

長浜の昔を語る会


戦後、親がいろいろな物と交換してこのかぼちゃを手に入れ、食べさせてくれました。掌黄色になるほど食べ空腹を癒してくれました。

瀬戸内市在住77歳(2018年当時)



《引用書籍》

<瀬戸内市図書館>

牛窓町史 民族編 平成6年/ 牛窓町 発行 牛窓町史編纂委員会 編集

牛窓町史 通史編

牛窓町史 資料編Ⅲ 近代現代

牛窓風土物語 続 昭和48年/牛窓郷土研究会 刈谷栄昌氏

長浜の昔を語る会 平成6年/牛窓町公民館長浜分館長 赤松勉氏


<牛窓公民館図書室>

むらの記録 師楽 昭和54年/山本満寿一著

牛窓春秋 62号 平成6年

岡山の園芸 昭和30年/岡山県編 豊岡治平著